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防災情報TOP >> 阪神淡路震災[1995年] >> コメント#5

阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)概要


阪神淡路大震災 (兵庫県南部地震)
1995年1月17日 AM5:46 M7.3 16km
死者6,434人、行方不明3人、重傷10,683人、軽傷33,109人
全壊家屋104,906棟、半壊家屋144,274棟、一部損壊家屋390,506棟
道路被害7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖くずれ347箇所
ブロック塀等の倒壊2,468箇所

■阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路大震災の震度分布
震度表
平成7年(1995年)1月17日(火)午前5時46分、淡路島の北東約3kmの明石海峡付近の深さ16kmを震源とするM7.3の地震が発生した。
正式名称「平成7年 兵庫県南部地震」

神戸市須磨区鷹取、長田区大橋、兵庫区大開、中央区三宮、灘区六甲道、東灘区住吉、芦屋市芦屋駅付近、西宮市夙川等、宝塚市の一部、淡路島北部の北淡町、一宮町、津名町が震度7烈震。神戸と洲本で震度6、京都、彦根、豊岡で震度5、岐阜、四日市、上野、福井、敦賀、津、和歌山、姫路、舞鶴、大阪、高松、岡山、徳島、津山、多度津、鳥取、福山、高知、境、呉、奈良で震度4を観測し、広い範囲で揺れを感じた。
被害は震源域付近の神戸市が甚大で、東灘区では阪神高速道路神戸線の橋脚が折れ635mに渡り横倒しとなった。埋立地である六甲アイランドやポートアイランドでは、島全域で液状化現象が発生し、地盤が約50cm近く沈下した。神戸市兵庫区の神戸高速鉄道「大開駅」では、地下1階の改札口から下のホームまで大きく陥没した。神戸市中心街の三宮では、一階部分から大型ビルが折れまがり、そのままの状態で道路を塞いだ。南北に走る幹線道路には大きな亀裂が走り、50cm近くも盛り上がるなど路面が波打った。三菱銀行兵庫支店やダイエー、8階建ての神戸市役所も6階部分から折れ曲がるという座屈現象も起こし、オフィス街のビルの約2割が瞬時に使用不能となった。
地震の直接被害はオフィス街よりも木造家屋の密集地が深刻だった。神戸市灘区の阪神大石駅東側付近では、家屋のほとんどが倒れ倒壊率がほぼ100%近くに達した場所も出た。地震により神戸市を中心に約十数万棟の家屋が一瞬にして倒壊、早朝だったために就寝中の人たち約4,800人以上が倒壊した家や家具の下敷きとなって圧死した。兵庫県南部地震で特徴的なのは犠牲者の9割近く(84%)が家屋倒壊による圧死者だったことだ。倒壊家屋は、木造だけでなく鉄筋建築物にも見られたが、後の調査で、昭和56年(1981年)以降(いわゆる新耐震基準)に建てられた建物は比較的に被害が少なかったことが判明し、震災を契機に、同年12月には耐震改修促進法が施行され、地震調査研究推進本部も発足した。
人口が密集した大都市部の地震では、二次災害の火災が大きな被害となる。兵庫県南部地震も地震直後に、神戸市の52ヶ所で一斉に火の手が上がった。周辺住民による消火活動が行われたが、放水をはじめた直後にホースの水は止まってしまったため、火の延焼を食い止めることができなかった。神戸市の水道管は各所で破壊され、約2万4千ヶ所の消火栓のほとんどが使用できなくなったからである。神戸市は家屋6,912棟が全焼(うち4,730棟が長田区)し500人以上が焼死した。
全体の火災を時間帯別に見ると、半数は地震直後14分間に発生した火災だったが、地震発生から数時間以上経過してからも少しずつ発生している。発生当日の1月17日の火災件数が206件、18日に21件、19日20件、20日9件と減少しながらも地震発生後10日目の1月26日にも神戸市で3件火災が発生した。
災害時の火災には特徴がある。まず第1波は、ガス漏れなどによる同時多発的な火災、第二波として地震後しばらく経てから散発的に発生する「通電火災」である。通電火災というのは、住民が慌てて避難した時に家のブレーカーや家電製品のスイッチを消し忘れたために、電気が復旧した時に電化製品が発熱し引火する火災である。人のいない場所で起るために、火災に気付くのが遅れて大規模な延焼火災に発展する可能性が高い。
消防庁の調べによると、地震から10日間に4府県で285件の火災が発生し、約半数が発火原因の調査ができずに不明、判明した残る139件のうち実に6割以上の85件が「通電火災」だったという。常識として、一次避難する際には電気のブレーカーを落とすことを、家族で周知徹底すると良いだろう。

ピーク時には約260万戸で停電が発生するなどライフラインにも長期間に渡って甚大な被害をもたらした。水道の断水戸数はピーク時に約130万戸だったが、復旧は3ヵ月後の4月17日だった。ガス供給停止は約86万戸で復旧は4月11日。電話不通30万回線を超えたが、NTTによる応急復旧は2月1日までかかった。
鉄道も各線が途絶し、JR東海道線の全面開通は4月1日で、山陽新幹線の全線の運転再開は4月8日。被災地域の全鉄道網復旧は8月までかかった。国道の完全復旧は7月21日(名神高速は7月29日)。神戸線の全面復旧は翌年1996年9月末までかかった。
地震発生後1週間で589ヶ所の避難所に23万7,000人の被災者が避難し、約3万世帯の人たちが仮設住宅で翌年の年を越した。最後の仮設住宅が引き払われたのは4年後の1999年12月20日だった。
大都市を襲った阪神震災は、改めて様々な防災対策に警鐘を鳴らした。震災を契機に震度階級など新たな基準も作られた。現代の大都市直下で発生した初の震災として特筆すべき地震災害である。

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阪神淡路大震災
コメント募集期間:2002年1月15日~2月4日
阪神淡路震災から7年。2002年の「防災とボランティア週間」にサバイバルフーズの【Seiさんのお店】サイト上のイベントとして広く「阪神淡路震災」というテーマを設けてコメントを募集したものです(参加総数:1,345人)。

神奈川県川崎市

イトコが三宅島にとついでいて、今、都内で非難生活を送っています。阪神大震災の被災者の方たちも大変な思いをたくさんされたんだろうなぁと思います。


広島県福山市

私の兄が被災しました。家が半壊して今は別の所で暮らしています。身近な人が経験したので、それからは防災に気を使うようになりました


埼玉県幸手市

いつものようにTVをつけたらニュースのはずなのに映画が流れてるのと一瞬勘違いをした。それぐらい壮絶だった。
わけもわからず涙が止まらなかった。
義援金ぐらいでしか参加できない自分達の不甲斐なさがつらかった。
3年後、あるバイトで知り合った神戸出身の子が当時の事を話してくれた。
彼は震災の被害者でした。
話を聞いた後、この時も涙が止まらなかった。
目の前の友人が生きてここにいることになんだか感動した。


静岡県浜松市

あの日は、愛知県にいました。すんでいたんですが、大きなゆれで目がさめました。胸騒ぎするような気分でしたのでTVのニュースをつけて地震情報を見ていたのですが、神戸あたりの周りの被害が大きく報道される中、肝心の神戸あたりは被害情報もなくどうなったのか心配しつつ仕事に出かけました。当日は携帯電話もかかりにくく、何か大きな災害が起きたという認識はお昼頃からでした。神戸の友にはまったく連絡がつかず、10日程度たった頃無事との連絡があり安どした覚えがあります。


三重県三重郡

美容学校の友達が、結婚して兵庫の東灘区に住んでいた。
その日は、連絡しても電話が繋がらず、仕方がないので2~3日待ってから彼女の実家へ電話して様子をきいてみた。
物凄く揺れはしたが建物は無事だったらしい。それを聴いてホッとしたがガスも水道もストップして遠くまで水を貰いに行ったとか、散らばった食器棚のガラス処理等も大変だったときかされた。その話を聞いた私は、その後・・・
1.寝室にはタンスを置かない
2.室内にも靴を1足置いておく。
という事を、実行しています。


静岡県静岡市

私は東海地震が起きた場合、震度7以上の地震がくるであろうと思われる地域に住んでいます。私が小さいときから「いつくるかわからない」といわれている大地震ですが、そういわれすぎていて「まだこないだろう」といつも思ってしまう悪い癖がついてしまったようです。
防災といえば寝室に倒れてきそうなものは置かない、というようなことしかしていません。
いけないですね。。。今日、このコメントを書いたことをキに、もう一度防災について考えてみようと思います。あぁでも、私か生きているうちは、、、やっぱり子供たちが生きているうちは、地震が来ませんように!神様お願いします!


宮城県仙台市

先日初めて怖いと思う地震を感じました。その日TVを見ているとグラグラときたので「どうせすぐおさまるな」と思っていたら一旦おさまった後、今度はすこし強くゆれたので慌てました。結局何事もなかったのですが、何の準備もしていないことを改めて感じて早速緊急時の備えをすることにしました。


大阪府大阪市

大阪に住んでいるのですが、明け方ねていると今までに聞いた事の無い、今思うとあれが地鳴りって言うんだと思いますが、音と共に激しい縦揺れ食器の割れる音、停電。。。落ち着いてから傾いたテレビを縦に戻してテレビのチャンネルをつけるとなんとあの阪神高速がつぶれていました。ただただえ---っと言うしかありませんでした。当時は7ヶ月の赤ちゃんがいました。人間ってとっさの時は本とになにをするかわからないもので、揺れたとたん抱き上げオッパイを飲ませていました。でも非常事態にそなえて備蓄は大事だと感じました。


大阪府交野市

阪神淡路大震災、この言葉を聞くといまでも悲しくなります。私は被災者ではありませんが当時、看護婦として働いていましたので震災の3日後からボランティアとして神戸に行きました。神戸にはよく遊びにいってましたが震災後は遊んでた頃の神戸の面影はなく高速道路は割れ、家は崩れ、焼け・・・。あの光景をみた時は正直、ショックでした、ここまでひどいとは思ってなかったからです。あの震災でたくさんの人が家族を失い、家や財産を失い、心に大きな傷を負ったことと思います。私は、負傷者の援護を2泊3日でして地元に戻りましたが、帰ってから私はなんの役に立ったのだろうか?とか、結局何も出来なかったとか色々考えました。それから少しして勤めていた病院に震災で両親をなくされた、子供さんが診察におばあさんとやてきました。おばあさんが言うには震災があってからその子供さんがショックのあまり言葉を話さなくなったとのことでした。それを聞いた私はすごくショックで胸が痛みました。この子だけでなく他にもたくさんの子供がこんなに大きすぎる心の傷を負ったのかと思うとやり切れません。今、復興に向けて皆さん頑張っておられますので私は何もできませんがせめて応援だけでもできればいいなと思ってます。もう2度と起こらないことを祈ります。そして被害をうけた方々が前と同じ生活が早く出来るように、陰ながら応援したいと思います。


大阪府大阪市

その時、私は手術を終え麻酔の切れかかった事の出来事で他の患者があたふたしてる中、看護婦もキャーキャー言ってるだけでした。私は感が強いタイプで入院前よりかならず地震が来るのでサバイバルグッズ(ボーイスカウトにいました)をつめたリュックと安全靴で入院しましたが、手術の次の日にくるとは思わなかったです。家族や友人は私の感の当るのが気持ち悪いらしく、黙って家族の分を含めた用意をしてます。


東京都青梅市

この日は、珍しく朝5時過ぎから起きて、TVを見てました。そのうちニュースが飛び込んで、「どーしちゃったの、何がおきてるの」っていうかんじでした。
引っ越した友達に連絡が取れなくて、心配したり、ニュースでは、どこも同じ映像を、使ってばかりで、もっとたくさんの人の映像を使えって、TVの前で叫んでいたのをおぼえています。ただ、TVの前の一視聴者でしかなかったことが、今は恥ずかしいです。


愛知県名古屋市

私の第2のふるさと兵庫県が震災にあった時に出来たことは、友達に無事かどうかの確認をとる事と、義援金を送ることぐらいしか出来ませんでした。今も、101円じゃがいもで、チョッビットですが、支援しています。この東海地方では、中部大浸水があり、すぐ近くの名古屋市西区などが被害にあったときは、当時小学生だった息子が友達と一緒に西区の小学校に浸水後のかたずけにいきました。子供たちにとっても、ショックを受けるとともに、良い体験が出来たと思っています。


青森県八戸市

阪神淡路大震災の前、私の住んでいる八戸も三陸はるか沖地震で苦しみました。
そのときに家であまっている毛布や、布団、枕なんかを近所の避難場所にもっていき、大変喜ばれました。やはり、困っている時にはお互いに、助け合いの心が大切なんですよね。
クッキーをたくさん焼いてみんなに配ったりもして大変喜ばれました。子供さんなんかはすごく喜んでくれてうれしかったです。
災害のとき、ご飯もいいですがやはり、オヤツ的な要素のあるものって重宝すると思います。ちょっとした、心遣いですね。。。


神奈川県相模原市

阪神淡路大震災の二日前に義妹の結婚式がありました。新婚の二人は旅行に出ていて無事だったのですが、飛行機をおりるなり地震のニュースを見てしまって、それはそれはビックリしたそうです。すぐに帰ろうとも考えたのですが、関空に降りる飛行機がないとのことで、なんともできず、やきもきしたまま一週間のハネムーンを過ごしたとのことでした。
神奈川の我が家からも電話を200回ぐらいかけて、一時間半ぐらいかかったと思う。やっと大阪の夫の実家につながり、無事を確認。ホッとしました。義妹から国際通話ということもあり、電話回線自体が繋がらなかったそうです。困り果てた義妹は我が家に電話してきて、やっと話ができました。
それ以来、親戚中で、災害時の伝言ダイヤルの約束をしました。一般電話はあてに出来ないことがよく分ったので。


神奈川県横浜市

阪神大震災当日の朝、東京ですが、会社にて、向かい側の人がたまたま電話かなにかで地震を知り、大阪で地震だと言った。でも後で知った程の大型のものとは誰もその時は思わなかった。私の住んでいる横浜の南の方、磯子では先ずこどもの頃から50年以上地震災害は受けておりません。従って地震の怖さは実感として浮かんでこないのが本音です。昔、両親から関東大震災の話を聞いても遠い昔の話ぐらいの感覚です。いざというときには、何にもできないでしょうが、せめて、火事を起こさないように、火には充分注意しようとだけは、心がけております。


東京都練馬区

阪神大震災は確かにすごい出来事であったと思いますが、私にとっては20年位前になるのでしょうか、宮城県沖地震のほうが、印象は強いですね。
当時私は山形県米沢市に住んでおりまして、地元のデパートの本屋さんで漫画の立ち読みをしていました。
地震のその瞬間のゆれも結構すごかったと記憶していますが、それよりもあたりの床一面に、売り物が散乱していた光景が脳裏に焼き付いています。
突然やってくるものだから、ほんとに恐いものだと思います。


愛知県名古屋市

阪神、淡路大震災では友人が激震区に住んでいて当日連絡がとれず大変心配しました。幸い家族皆無事でしたが、家財道具等全滅でしばらく実家に帰っていました。ただ、当時小1の娘さんがかなりのショックでしばらく夜眠れなかったり1人で留守番が出来ないなど後遺症もあったようです。震災に対する備えももちろんですが、精神的被害を受けた人たちのアフターケアも考えなければ…と思います。


北海道帯広市

阪神淡路大震災は今でも記憶に残っているほど悲惨な出来事でした・・・。
改めて震災の恐ろしさを痛感させられました。
私は、何度か震度5以上の大地震を体験しています。中でも1993年の1月15日の釧路沖の地震は忘れたくても忘れられない恐怖を味わいました。家具は倒れ、つり棚は落ち、食器類がガッシャン・ガッシャ~ンと割れる音を聞きながら、このまま続くと家が倒れるのではないかと心配していたところに停電となり真冬の夜に心細い思いをしました。
あの何とも言えない地鳴りと共に近づいてくる地震は、どの程度の揺れか、またいつまで続くのか解らないだけに余計に恐ろしいですよね。あの地震以来我が家には緊急時の保存食が仲間入りしています。


愛媛県西条市

早くも7年になるのですね。私も3月に愛媛から瓦礫掘りのボランティアに行きました。女の子なので、保育班に回されそうになったのですが、熱かった私は「現場や!」と無理に男性に混じって、崩壊家屋に向かわせてもらいました。そこで思ったこと。「アルバムは2階に」。「幸せだった頃の思い出」などが、被災者の勇気や生きる力、団結につながることを知りました。だから、大切なモノは、地震被害の少ない2階へ。今でも、苦しまれている方々へ、「生きてくださいね」。


京都府宇治市

当時41歳でしたが、こんな大きな揺れは経験したことが無く、それまでは、家の前が火事で消防車が沢山来ても起きないぐらいの私が、飛び起きて女房と子供部屋へ飛び込んで子どもの上に覆い被さりました。
掲示板にもいろいろ書きましたが、この時が我が家の防災元年と成りました。
厄年なんて信じないですが、前年から心臓が悪くなり、四十肩で右手が上がらなくなり、地震の前日鉄の扉で指を挟み左手の親指の生爪をはがし!!そんな年でした。
だから直接被害がなくても、忘れることが出来ません。
私は防災関係の仕事の為、当日も運転していた近鉄で、いけるところまで行き、あとは歩きで出社して客先の設備復旧に行きました。
腫れた手に包帯をしてるので、どこでも地震でケガをしたの?と聞かれましたが、本当の理由は言えませんでした。
東海地震、南海地震、も近いと聞きます、自分でできる備えは自分の手でしましょう。


埼玉県草加市

以前勤めていた会社には兵庫県に支店があり,社員の中には被災して避難生活をしていた人も何人かいたようです。
地震のあったその日はとりあえず住んでいるところは大丈夫だった人の話によると水道がストップしたためお風呂の残り湯でお米をといでご飯を炊いたそうです。
地震の直後はすぐとなりの学校のプールの水が全て外に出てしまうぐらいゆれたそうです。
あれから月日は経ちみんなあの惨事の記憶が薄れてきているけどこちらのように備えて開発に励んでいてくれるというのはありがたいことです。


東京都江戸川区

震災に時は大阪にいてかなりの揺れを感じました。友人も多数被災して大変だったことを思い出します。あの時に水や非常用の食料の大切さを実感いたしました。ですので今では水、食料は絶えず確保しています。


埼玉県上尾市

私が田舎に居た頃は、震度5の地震を何度か体験していたし、地震なんて頻繁にあって上京してから「地震が少ないなぁ」と会社で時々話していたくらいです。
そんな話をしていると、後輩の神戸出身の子が「うそ!?東京はすっごく地震が多いと思っていたし、揺れも大きいよ」と言うので冗談で「ウチの田舎に住んでみるかー!?」とか言っていたものでした。
・・・が、さすがにその日の朝はその後輩のご家族は大丈夫だったのか、とても心配になって仕事をせずに、彼女が出社してくるのをみんなで待っていました。
当の本人は、朝はTVは見ない主義で、何でみんなが自分の家族の心配をしているのかわからなくてキョトンとしていたのですが、TVを見て真っ青になっていたのを覚えてます。
その日と次の日は、1日中電話をかけていたのですが、かけてもかけても繋がらなくて、当然、全く仕事にならないので、特別に会社が「ゆっくり休むように」と休暇を与えていました。
あの時に初めて、災害時・一番声を聞きたい時に電話は使えないというのを知りました。
携帯電話が普及しても、何かあると回線がパンク状態になって使えないし、何とかならないのかなぁと思うし、今、関東でそんな事態になったら、主人と連絡はとれるのかとか、飼っている2匹の猫達は大丈夫だろうかとか、色々考えちゃいます。


兵庫県神戸市

マンションが全壊で仮設に2年弱暮らし建て替えでもとのところに帰ることができました。


東京都町田市

当時大阪市内に住んでいましたが、一瞬グラッときたくらいでたいしたことないと思っていました。が、地下鉄も動いていなくて歩いて会社まで行き、エレベーターも止まっていたので階段で15Fのオフィスに行ってびっくり!キャビネットは倒れ、机やパソコンも重なり合うように部屋中ぐちゃぐちゃ。そして神戸の様子を知って更に驚き、信じられない思いでした。災害はいつ訪れるかわからないことを実感し、しばらくは防災グッズも常備していましたが、今は・・・ これではいけませんね。また常備するようにしたいと思います。


大阪府大阪市

もう7年になりますね。私は福岡にいたのですが、子供は2人とも大阪の大学に行ってて神戸大学とも交流があり、体育会に属してたので神戸大の応援団長とも仲がよく、3日前に会議であったばかりなのにその震災でなくなられたそうです。本人は勿論、親御さん(もどうなられたかわかりませんが)のショックはどんなだったろうと思うと、平静ではいられませんでした。これからも記憶は消えること無いと思いますが、負けないで頑張って欲しいと思います。


岡山県備前市

震災の被害者の方は今も苦しんでおられることと思います。家がなくなった人、家族が亡くなった方。親御さんが亡くなられた学生の方の奨学金がだんだん打ち切られているとか。残念なことです。行政だけでなく、民間の方の善意を乞うています。


千葉県市川市

防災の準備をしている人の割合ってどのくらいなんでしょう?
1月の阪神淡路大震災のときと9月の防災習慣のときくらいしか思い出さなかったりして、あまり危機感のない人のほうが多いと思います。
「気の毒な人もいるけど、自分は災害になんてあわないわ」、と思っているんでしょうね。一生災害や不慮の事故に縁のない人もいるでしょうけど、他人事とはせずにもっと大勢の人がいろんなことに危機意識をもっていかないと、いけないなあと思います。


京都府宇治市

そう言えば昨日は阪神大震災からちょうど7年目の日だったんですね。私の家庭教師の先生の実家が西宮にあったり、親戚が尼崎と宝塚に住んでいたり、で、とてもひとごとではありませんでした。幸い私の直接の知り合いには特に死傷者等はいなかったのですが、友達の友達がなくなる、といったようなことを聞きました。
神戸も今は活気を取り戻したように見えます。人間はすごいなあ、と思いますね。
私はあの地震のとき、なぜか早く目が覚めてちょうどお風呂に入ったところだったので、裸でおろおろしてました。あとで気付いたら私がお風呂を沸かしながらお湯に使っていたせいでガスが止まってしまっていました。朝ごはんを買いに走りました。ついでに風邪をひきました。周りの家では特に何も被害がなかったので、なんか物悲しかった記憶が…


兵庫県神戸市

七年前のあの朝、揺れがくる前の地響きで目が覚め、「!?」と思った矢先に激しい縦揺れがきました。それはまるで遊園地の乗り物のような信じられない感覚でした。今から考えればほんの20秒か30秒だったでしょうか・・ゆれている最中に、壁に亀裂が走ってゆくのをまるでスローモーションのように見ていました。揺れがおさまった後、呆然としながらも部屋を見て廻ると、あらゆるものが部屋中に散乱して、床は割れた食器などでガラスだらけでした。マンションの8階だった為、揺れが増幅されたのです。
地震のあったその日に近所のスーパーには長蛇の列が出来て、商品棚には何にもなくなり、乾電池や携帯ラジオは高値で取引され、自動販売機のタバコ一つで殴りあいのケンカが勃発するなど、考えられない状況が数日続きました。
今日17日、あの地震の日に生後6ヶ月だった長女が、学校で大震災について話し合ったと言ってました。水や電気の大切さ、人としての思いやりの大切さを、子供たちにはこの震災を通じて学んで欲しいと思っています。


神奈川県横浜市

一月の十七日は、その日胃痙攣で入院をしていて一日中そのテレビを見ていました。カーテンに遮られた隣のベットでも、その中継を見ていたらしくすすり泣くような声が聞こえてきました。
それから、半月ほどして、仕事場に神戸から女の子が来ました。震災で家を失って、東京の公団に斡旋されて来た子です。明るく元気で、歯を食いしばって頑張っている彼女は、他のスタッフにも大きな影響を与えたと思います。
ボランティアほどとはいかないのですが、その当時の仕事仲間達でできることを進んで神戸の震災の基金に協力しました。


兵庫県神戸市

あの日は、頭部に激しい衝撃と痛みを感じて飛び起きました、窓も戸も開かず真っ暗闇の中余震に怯えながら家族と必死で外にでようとしました。
やっと雨戸をこじ開けて外に出たとき、薄暗い空にあちこちから煙が上がっていました、自分の顔に乾いた血がこびり付いていることに気付いたのは、だいぶ空が明るくなってからのことでした。それからの一ヶ月以上続いた不自由な生活も今では遠い記憶になったのは、幸いにも家族の中に大きな怪我を負ったものがいなかったからでしょう。


大阪府富田林市

夜間警備のボランティアに行った事が、思い出されますね。
あの当時は、震災直後のせいか被災地の人の心も確り纏まっていましたね。
お互いに、いろいろな面でのゲキシンを忘れたくないですね。


兵庫県神戸市

阪神大震災の時に、寝ている真横にタンス等が倒れてきて死にそうになったので、寝るときは回りに高い物を置かないようにしています


静岡県富士宮市

静岡県のしかも富士山の麓の富士宮に住んでいるため、地震は人事ではありません。子供の頃からいつ起こるか、と言われ続けていて、阪神大震災の時の政府の対応の遅さにとても不安を感じました。脱税ばっかしてるくせに税金高くすることしか考えないくせになにかあった時くらい国民を守りなさい。


大阪府大阪市

防災とともに、保険契約も見直す気構えが必要だと思います。


 ■店長コラム 地震保険... [2002.2.4]

阪神大震災で被害の最も集中した兵庫県内では、1994年末のデータで、全世帯のうち3%の世帯しか地震保険に加入していなかったそうです。
1994年末の全国の地震保険加入率の平均値が7.2%(2000年3月末は15.4%)で、最も加入率の高い東京都で16%でした。これらのデータからもわかるように兵庫県は全国でも地震保険加入者の少ない地域でした。
ご存知ない方もいらっしゃるでしょうが、地震保険は単独では加入できません。火災保険とセットになっています。また、一般の火災保険は地震、火山噴火、津波による被害を補償対象外(免責)としており、火災保険だけでは保険金はおりません。ただ、地震等により建物が半焼以上、家財が全焼となった場合にのみ火災保険金額の5%(300万円限度)の地震火災費用保険金が支払われます。
地震保険は火災保険の補償金額の30%~50%までしか加入できず、加入上限は他の地震保険契約と合わせ建物5000万円、家財1000万円が上限となります。2001年10月1日から地震保険の料率改定が行われ、建物のによって割引もされるようになりました。恐らく一番高い加入で年額6万円程度ではないかと思います。
また、掛け金は住む場所によって等級が分かれます。東京、神奈川、静岡の3県が等級の一番高い4等級となります。
加入者にとって心配なのは巨大地震がおこった場合に保険金支払いがとてつもない金額に膨れ上がり保険会社の支払能力を超えてしまって掛け損にならないかということです。しかし、地震保険は法律に基づいて保護されており、支払額が多くなると政府による再保険制度が適用されて、政府が95%まで責任を負うと定められています。
なお、阪神淡路震災の保険金支払では昨年に興味深い和解がなされています。
阪神大震災保険金訴訟/住友海上火災保険が和解(2001.9.11毎日新聞)
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その他、地震(震災)に関する参考資料集

日本における「主な直下型地震の発生確率一覧」
日本における「主な海溝型地震の発生確率一覧」

東京都(全5,099地域)地震に強い地域・弱い地域ランキング

緊急地震速報について

2004年 新潟県中越地震 の震度分布
新潟県 中越地震


■1995年 阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路震災についてアンケート調査コメント集
阪神淡路震災(兵庫県南地震)


1923年 関東大震災の震度分布(大正関東地震)
関東大震災


■2001年 芸予地震の震度分布
2001年 芸予地震
■2003年 三陸南地震の震度分布
2003年 三陸南地震[M7.0]
三陸南地震の図は出典:内閣府[広報ぼうさい(No16号)]
●参考資料●相模トラフ沿いの地震活動[2004.8.23]

主な関東(首都圏)の地震年表

発生日名称規模死者負傷者
2005年7月23日千葉県北西部地震M6.0038
1992年2月2日東京湾南部地震M5.9034
1987年12月17日千葉県東方沖地震M6.72161
1956年 9月30日千葉県中部地震M6.304
1923年 9月 1日関東大震災  ●関東大震災 解説M7.9142,807103,733
1922年 4月26日浦賀水道地震M6.8223
1921年12月 8日茨城県南部地震M7.000
1915年11月16日房総半島群発地震M6.005
1895年 1月18日茨城県南部地震M7.2968
1894年10月 7日東京湾地震M6.700
1894年 6月20日明治 東京地震M7.031197
1855年11月11日安政 江戸地震M6.910,000多数
1853年 3月11日嘉永 小田原地震M6.7100多数
1782年 8月23日天明 小田原地震M7.0有り有り
1703年12月31日元禄地震M8.210,000多数
1697年11月25日元禄 鎌倉地震M6.5不明不明
1633年 3月 1日寛永 小田原地震M7.0150多数


※震度分布の画像について:
三陸南地震についての画像は、内閣府発行の広報誌[広報ぼうさい(No16号)]より画像引用しています。それ以外は、Seiさんのお店で作成したオリジナルです。
その為、三陸南地震の画像についてはHP等で使用・引用しないようにして下さい。それ以外の震度分布図の画像は、もしご入用でしたら、個人・法人問わずHP等で自由に利用下さって構いません。

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